
真夜中の日本中にラジオからの絶叫が響き渡った。
1936年8月11日。ナチス執政下のベルリンで開かれたオリンピックの女子200m平泳ぎで、前畑秀子はドイツのゲネンゲルを破り、1秒差で日本女性初の金メダルを勝ち取った。国際連盟を脱退し、刻一刻と軍事態勢を強めていく日本にとって、オリンピックは国家の威信を示す格好の場、国威発揚の場でもあり、出場選手には並々ならぬ重圧がかかっていた中での快挙であった。

秀子は1914年、(現)和歌山県橋本市に生まれた。幼少の頃から紀ノ川で泳ぎ、小学校6年生の時には既に女子の日本新記録を更新し、天才の名を欲しいままにした。
そして両親を相次いで亡くすという悲運にもめげず、女性のアスリートの先駆けとして1932年のロサンゼルスオリンピックでは銀メダルを獲得した。それは一位の選手と0.1秒の僅差の銀メダルだった。あと0.1秒だったのに。次こそ金を目指せ。金でなければ意味がない。金を取るのは前畑しかいない。引退も考えていた秀子だが、国民の声に押され4年後のオリンピックを目指すことを決意する。0.1秒差の壁を越えるための練習は熾烈を極めた。
午前5時から深夜まで連日2万メートルを泳いだ。冬季の水の冷たさは想像を絶するほどであった。また、彼女を指導できるだけのコーチもいなかったため、練習は全て自己流という、現在では考えられないような過酷な環境だった。
負けたら生きて帰れないとの覚悟を決めて挑んだベルリンオリンピックで見事、金メダルに輝いた前畑秀子。だが彼女の戦いはまだ終わりではなかったのだ。

引退後は結婚し、家業の手伝いや育児など穏やかで幸せな第二の人生を歩み始めた。しかし45歳の時に二人の息子を残し、最愛の夫が急逝する。一時は悲嘆にくれた彼女だったが、その時思い出したのはあの金メダルだった。


彼女は再び立ち上がった。夫の死後、水泳の一般への普及に取り組み、日本初のママさん水泳教室や、中高年向けの水泳教室を開催した。彼女の情熱は衰えることを知らず、60歳を過ぎても第一線で指導を続け、そして1981年に五輪功労賞を受賞した。ようやく順風満帆かと思えたが、68歳の彼女をまたも試練が襲った。名古屋のプールで子供たちに水泳を教えている最中に、脳出血で倒れたのである。一時は生死の境をさまよい、意識が戻っても右半身に麻痺が残る状態だった。そこから懸命なリハビリを続け退院し、なんと1年後にはプールに復帰し指導を再開したのだ。彼女はこう振り返っている。「絶望の淵から這い上がった経験こそ、金メダル以上の価値があった。」と。

1990年には日本女子スポーツ界の文化功労者に選ばれ、そして1995年、急性腎不全で静かに80歳の生涯を終えた。最後まで水泳にひたむきに打ち込み続けた人生だった。

時は流れ、今現在も秀子の精神は耐えることなく受け継がれている。
あなたもきっと出会えるはずだ。一生自らと戦い続け、栄光を勝ち取った彼女のスピリッツと。
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